Re: パソコンのはなし The lecturer Mu (@気の向くまま)
パソコンの歴史と親指シフト
http://blog.goo.ne.jp/naoki033373/e/02033053507d25a595038b1f0e60bf59?fm=rss
なかなか通らなかった企画書をワープロ専用機で清書して出すと通った。悪筆の手書きではなかなか通らなかった企画書も、清書をするだけで・・・!
28年前に味を占めて以来、もっぱら企画書はワープロ打ち。当然時代の流れで、ワープロ専用機からパソコンに、親指シフトからローマ字入力に変わる。
日本語環境で、コンピューターを利用して文書を作成するということはワープロ専用機で実用的な技術となりました。ワープロ専用機もコンピューターの一種と考えて良いでしょう。
ワープロ専用機やパソコンでの文書作成がどのような目的のために使われてきたかということを考えると、大まかには次のように言えるのではないでしょうか。
上記の引用にあるように、最初は手書きで作られた文書の清書という側面が強かったでしょう。オフィスなどでの環境を考えてみれば、文章の内容は上司が考えて手書きの文書にします。これを文章入力専門の人がワープロを使ってきれいな文書にします。機械の値段が高く、人数比で少ししか導入することができないとなれば、このような使い方は納得がいくものです。
この時期では文章入力をするのはプロの仕事という面が強く、そのため、親指シフトは効率の高さから「プロの道具」として選ばれていました。
ハードウェアの価格が下がり(パソコン時代になってそれは加速しました)、人数比での機械の数が多くなり、ほとんどの人がパソコンを使って文章を作るようになります。それでも、文書作成の目的はまだ清書に近いものだったのだと思います。習わなければいけない技術は文字入力などよりも、ワープロソフトでどのように形の整った文書を作成するかという点に重点がありました。
この時期には、文書ファイルをやりとりする(当初はフロッピーディスクなどで、後にはネットを通じて)ことが普通になりました。ファイルの互換性を保証するための最も確実な方法として、使用するワープロソフトを統一する方向に進みました。決まったワープロソフトの使用方法を覚えることが、誰にとっても必要になり、文字入力の技術自体を高めることの必要性は低下していきました。こうした中で、親指シフトについても次第に関心が薄れていったのだと思います。
さて、ネット時代になるとこの状況はどうなるのでしょうか。ネット時代の特徴的なこととして、どんなことでもブラウザのような共通のプラットフォームを通じて仕事をする傾向が強くなっていることがあります。文章をを作成して人に見てもらうという仕事を考えた場合、ユーザーがもっとも力を入れなければいけないのが、一次的な文章作成(内容と実際の表現)に移ってきているのではないかというのが私の考えです。つまり、見栄えを良くするような仕事はネットの向こう側でできる(ブログのような見やすいページを作るのはワープロなどでは結構大変です)ので、その技術の習得はそれほど大変なものではなくなってきているのではないでしょうか。
そうだとすれば、文章作成のための技術の相対的な重要性はかえって今の時代の方が高いはずだというのが私の仮説です。自分の思想をよりスムーズに文章という形にするための技術の選択は今こそ大切な問題であると私は思います。親指シフトの復権はこのような文脈で考えられるべきなのです。
| 固定リンク
« Re: ワープロ・アサンド・プリキュアの朝 (@サカキノホトンブログ) | トップページ | Re: 潮風公園でエルグランドの撮影から座談会へ (@松下宏の見たクルマ、乗ったクルマ、会った人) »
この記事へのコメントは終了しました。
コメント