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2009/09/07

Re: 親指雑感(@altocicadaの独り言…)

親指シフトと日本語の構造
http://d.hatena.ne.jp/altocicada/20090907/1252306011

親指シフトにも慣れてきたし、たまにローマ字打ちでもしてみるか、といってしてみると、もうものすごい違和感である。これはもう戻れんナー、あっちには・・・。

やたらと打鍵数が増える煩わしさというものもあるが、それよりも、内語的な違和感とでもいうのか、一度表音文字にしたものをさらに表音文字に変換するという、間抜けさ、とでもいうか、それが精神的にすごく気持ちが悪い。

他の入力方法から親指シフトに移った人が親指シフトのファンになると「もう戻れない」ということを言うのを良く聞きます。上にあげた方も、親指シフトになれたら以前使っていたローマ字入力には戻れないとおっしゃっています。

このように感じる理由は人によりいろいろなようですが、この方は(1)ローマ字入力で打鍵数が増えること、(2)ローマ字入力だと表音文字(かな)との対応関係が失われる、というのが主な理由のようです。

異なった入力方法を比べるときに特に難しいのが、実際に使った場合のユーザーの感覚といったものをどのようにしたら比べられるかという問題です。打鍵数や指の動きの多少といった数値化しようと思えばできるようなものと違って、感覚的なものは客観的な指標にすることが難しいものです。

また、それが使っている言語の音韻や表記法、正書法との関連であったりすると単純な比較は特に難しいといえます。

ローマ字入力をする際に、かな→ローマ字(アルファベット)という変換を頭の中で考えながらしているかどうかというのは議論があるところのようです。ローマ字入力をしている人からすれば、文章を考えると同時に指が動いて入力をするので、かな→ローマ字という変換を意識しているわけではないという議論があります。これも一つの考え方だとは私は思います。

それでも、上記の方のように親指シフトを使い慣れると、ローマ字入力に違和感を感じるようになると言う人も多いように思います。

いずれにしても、この議論はもう少し深く掘り下げる必要があると私は考えています。

こんなことが出来る言語と文字体系って、日本語以外に存在するのか、不勉強にも知らないけれど、それはともかく、活用しないのは勿体なすぎると感じる近頃でありんす。

言語の音韻体系と表記法の関係は実にさまざまです。私も専門家ではないですが、少し考えただけでも、ラテンアルファベット系、アラビア語系、漢字系、インド系などいろいろで、背後にある考え方もずいぶん異なっています。

さらにこれをキーボード入力に対応させようとすると、さまざまな方法を採用しているようです。

キーボード入力の最大の制約は、人間の手指を使って操作するということで、このため、キーボードには大きさや使えるキーの数などの物理的指標におのずから制限があります。

一方で、コンピューター、特にソフトウェアの発達で、機械的制御のタイプライターでは考えられなかったような方法が可能になりました。つまり、機械的制御では、「1打鍵=1文字(ないし文字の部分)」という枠組みでしかできなかったことが、ソフト的制御では多彩、多様な方法を採用できるようになっています。日本語入力でのかな漢字変換はその最も成功したものと言えるでしょう。

そうだとすれば、日本語以外の言語でもソフト的制御の活用で、その言語の音韻や表記法、正書法を踏まえた違和感の少ない入力方法を考えることは可能だと言えるでしょう。それでも、キーボードという物理的存在の持つ制約は依然としてあるので、よりよい入力方法の課題は、ハードウェアとしてのキーボードとソフトウェアの調和をどのようにとれるかにかかっているのだと思います。

親指シフトキーボードの最も革新的なところは「親指と他の指の同時打鍵」というメカニズムで、物理的な存在としてのキーボードの可能性を大きく広げたことです。これがあったために、日本語の場合は普通に使われる文字や記号を使いやすい場所に配置することが可能になりました。

もちろん、全体的なシステムとしての日本語入力はかな漢字変換などの技術の進歩も必要だったのです。

親指シフトを他の言語で応用できないかということは私のペット・プロジェクトなのですが、これは、先ほど述べた親指シフトの革新的なところは他の言語でも活用できるはずだという思いから出ています。

言語が異なれば当然、その構造も異なります。違和感の少ない入力方法がどんなものであるかも違ってくるでしょう。それでも、親指シフトを使うことでよりよい入力方法を考えられる可能性は大きく広げられるはずだと私は考えています。

いくつかの言語における親指シフト利用の可能性については、右サイドバーにある「ケーススタディー(日本語以外)」をご覧ください。

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コメント

どうもはじめまして、altocicadaと申します。記事を取り上げていただき、どうもありがとうございます。

私の記事中で、
-一度表音文字にしたものをさらに表音文字に変換する-
と書きましたが、私の言わんとしたのは、良く耳にする、「頭の中で仮名をラテン文字にする」というのではなく、その全く逆で、「頭の中で起こっていないことが画面上で起こっている」という違和感のことでした。

私自身の経験では、「頭の中で仮名をラテン文字に直す」というような操作をした記憶は一度もなく、文字は常に音と直接に結びついているというような実感があります。(そのようでなければ、そもそも表音文字として文字を使えていないはずです。)ですので、あくまで個人的な経験の範囲内でですが、この手の議論にはむしろ懐疑的です。
「頭の中で起こっていないことが画面上で起こっている」ということですが、ラテン文字については上記のように感じて入力していますので、違和感の所在は、「ラテン文字で打ったはずなのに、画面には仮名が出てくる」という点にあるようです。
その後少しローマ字打ちをしている打ちに、さすがに慣れてきました「親指シフトに慣れ、手指動作と仮名という視覚的印象とが直接的に対応することに慣れたせいで、自分の打ったラテン文字が勝手に仮名に置き換えられていく様に、頭が
追いついていない」という状態に、一時的に陥っていたのだと思います。
つまり、親指シフトに慣れたことで、動作と結果としての視覚印象との間の直接性を、頭がより強く求めるようになった、ということではないかと、今のところ考えております。

このように考えるのには他にも根拠があって、色々試しているうちに、同じローマ字打ちといっても、英字モードで仮名に変換させずに打ち進めていくと、なぜか滞りなく打てる、という経験をしました。
また、この際にもう一点気付いたことですが、ラテン文字>仮名自動変換の場合、ミスタイプしたとき、何をどう間違えたのか、画面上の結果から判断しにくくなるように感じられました。これも、自分がこれからも親指シフトやそれに準ずるような入力方法を選好していくのだろうな、と現時点で判断している理由の一つです。

どうもまとまりのない文章ですみません。
日本語以外での親指シフト利用の可能性について、ケーススタディいくつか拝読しました。とても面白く、参考になります。

投稿: altocicada | 2009/09/09 14:06

すみません、文中
「ローマ字打ちをしている打ちに、さすがに慣れてきました」
は、
「ローマ字打ちをしているうちに、さすがに慣れてきましたが、」
の誤りです。

投稿: altocicada | 2009/09/09 14:16

altocicadaさん、こちらにお越しいただきありがとうございます。

「一度表音文字にしたものをさらに表音文字に変換する」についての説明ありがとうございました。私はまったく誤解していました。ついつい、よく言われることに引きずられてしまいました。

少し違いはあるかもしれませんが、漢字直接入力をやっている人はかな文字を漢字に変換するのが面倒だということを言います。これは変換という手間がいやだということなのでしょうが、もしかしたらaltocicadaさんのように出てきた文字が変わることに違和感があるということもあるかもしれませんね。

いずれにしても、このあたりの感じ方はなかなか説明がしにくいし、また人により感じ方もさまざまというところがあり、ある入力方法(別に親指シフトでなくても)の利点として売り込もうとすると、なかなか決め手にはなりにくいようです。

ただ、画面の上で文字ががらがら変わっていくのは確かにあまり落ち着いた環境とは言えない気がします。私もローマ字入力をするとローマ字がかなに変わるのがこんなに気を削ぐものかという思いですが、まったく気にならない人もいるんでしょうね。

ワードで英文で入力するとき、オート・コレクトがかかっていると、勝手に間違いを直してしまうのがむかつくという人もいれば、ありがたく思う人もいるというのと似ているのかもしれません。

ハングルの入力では普通に使われている方法では、一部の字母を入力したときにそれが今ある文字の最後の部分なのか次の文字の最初の部分なのかが区別できず、次の字母を入力しないと確定しないという場合があります。確定する場合には、これまで入力した文字が画面上で変わってしまうことがあり、これもいやな人はいるのではないかと思います。親指シフトを利用した入力方法ではこの問題を解決しているのですが、これだけでどれほどのメリットとして受け入れてもらえるかは分かりません。

どのような言語でも、文字入力はもっと合理的なものにできる可能性があると思います。ただ、その具体的なあり方は、その言語の音韻や表記法、正書法との関連を詳細に詰めないと決められないでしょう。親指シフトはそうした改善の一つの手段として有効に使えるのだと思います。

投稿: 杉田伸樹(ぎっちょん) | 2009/09/09 19:53

お返事どうもありがとうございます。
私の書き方もちょっと紛らわしかったですね。
かな漢字変換については、先のコメントを書いているときも、少し考えていましたが、ローマ字かな変換とかな漢字変換では、文字種どうしの変換という点では共通していますが、実際の感覚という点で、結構隔たりがあるように感じます。
かな漢字の場合ですと、漢字も多少は表音的ではありますが、原則として表意的、さらには表語的な文字です(確か高島俊男氏が漢字は表語文字であると主張していたと思います)。なので、漢字=語を実現する為に仮名=音を用いるのは、実際の言語処理とそれほど矛盾しないのではないか、と思ったりします。
翻ってローマ字かなですが、こちらはどちらも表音的で、両者が補い合う関係にはなく、そのためラテン文字は本来の表音文字としての機能から離れ、役割としてはメタ表音文字とでもいうべきものとなってしまい、そうなると最早、それがラテン文字である必要が無くなってしまうのではないか、と思うのです。この辺り、表音文字としてのラテン文字に慣れ親しんだ感覚からは、打鍵数という量的なストレスとは違う、質的なストレスとして感じられるのではないかと考えたりします。
(それで思い当たったのですが、ローマ字かな変換にストレスを感じない人というのは、ラテン文字を表音文字として捕らえきれていない場合が、もしかしたらあるのではないでしょうか。何せjya jyu jyo なんて奇妙なローマ字が、IMEに標準で登録されている位ですから・・・。)


P.S.全く関係ないですが、リンクにあるぎっちょんさんのアマゾンレビュー拝見しましたが、中に黒田龍之介さんの著書『語学はやり直せる』のレビューがあり、黒田ファンとしは嬉しかったです(笑)。黒田さんの本は以前から好きで何冊か読んでいますが、日頃つきあう連中には読む者があまりおりませんで・・・。
別になんというわけでもないのです、失礼しました(笑)

投稿: altocicada | 2009/09/13 06:19

ローマ字かな変換は同じ表音文字同士というカテゴリーなのでその中で変わるのは違和感があるが、かな漢字変換は表音文字と表語文字というカテゴリーの違うものなのであまり気にならない(あるいはしょうがないと思う?)ということですね。それもあるかもしれません。

ローマ字かな変換にストレスを感じない人はラテン文字を表音文字として捕らえきれていないというのは面白い指摘です。趣旨は少し違いますが、入力の際のかなからローマ字への変換を頭の中でしているかどうかという論争とも一脈通じるところがある気がします。

アマゾンのレビューまで見てもらってありがとうございます。黒田先生はどうしてあんなに良い文章を書けるのかとうらやましい気分です。親指シフトの売り込みでも、もっとうまい表現ができれば良いんですけど・・・。

投稿: 杉田伸樹 | 2009/09/13 21:41

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