Re: JISキーボードという喜劇(@コデラノブログ3)他2件
IT技術の国際化とはなんだろう。
http://blogmag.ascii.jp/kodera/2009/03/24145214.html
早くからIT教育は立派なことであるが、この子たちが大人になる頃は、ネット社会も成熟して国境がなくなることだろう。国際社会の一員ともなれば、英語でメールやメッセージのやりとりを行なう機会も、今よりもっと多くなる。
そうなったとき、その子供たちは英文をタイプするために、もう一度キーボードの英語配列を覚え直すことになるのだろうか。欧米に留学するときに、日本からキーボードだけ持って行くのだろうか。なんかそれって、すげえ無駄なハードルを作っているだけのような気がするのだが。
(中略)
何をもってバイリンガルとするのか。僕は英語環境でも普通にやっていけるやり方のほうが、メリットがあるんじゃないかと思うんだけど。下の子もたぶん、JISキーボードの洗礼を受けることになると思うが、小学校のうちにローマ字入力を覚えさせようと思っている。
まあ、私は親指シフトこそが世界標準であるとずっと言っているわけですが(笑)、それは別としても、上記の引用について少し吟味をしてみましょう。
まず、ネット社会の成熟化で国境の意味が低下していくだろうことはおそらく間違いないでしょう。その場合のコミュニケーションの手段として使われる自然言語として英語が選択されるのもおそらくここしばらくは確かでしょう。好きか嫌いかは別問題として、事実としてそのような方向でしょう。
だから、コンピューターを使って英文を作成する技術が重要なスキルとして必要とされることでしょう。英文作成を容易にできる環境を用意することも意味があることです。
しかしながら、そのことと日本語入力の問題と果たして関係があるのでしょうか。私の見るところ、上記の引用での主張には大まかに言って、二つの論点があります。
一つは、英文をタイプすることとローマ字入力をすることは果たしてそんなに関連があることなのかということです。確かにローマ字入力は、アルファベットを仲介として入力をしているといって良いでしょう。でも、私の見るところ、ある程度実用的な速度でローマ字入力をしている人はおそらくアルファベットのことを意識せずに指の動きで覚えているはずです。しかも、日本語のローマ字入力と英文入力では、文字の出現頻度(日本語入力では使わないアルファベットさえある)や文字の続き具合など、入力方法の巧拙に影響を及ぼす要素は大きく異なっています。ですから、両者の間で共通に使える技術というのは実はあまり多くないのです。反対に、中途半端に似ているから例えば「コンピューター」といった言葉を入力するのに混乱してしまうということを言う人もいるくらいです。
こうしたことを考えると「もう一度キーボードの英語配列を覚え直すことになる」のは、どの日本語入力方法を使ったとしてもその負担は大きくは変わらないのです。
もう一つの論点は、「欧米に留学するときに、日本からキーボードだけ持って行くのだろうか」という主張です。私はそのようにするべきだと思います(親指シフトが世界中で使われていれば持ってく必要はないですが(笑))。
この引用でいみじくも「キーボードだけ」という表現が出ています。つまり、コンピューターの本体は世界中どこでも同じものが使われているし、ソフトやデータはネット上でやりとりすれば良いので持っていく必要はないということを言外に述べているのです。しかし、キーボードは直接ユーザーが物理的に接触して操作するというものです。ですから、個人にとって使いやすいものであることが第一番の考慮事項であり、それで妥協することは知的生産性を低下させることになるのでやってはいけないことなのです。
この点からすれば、上記の引用での主張はまったく当を得ていないと言わざるを得ないでしょう。
私は自分の子供に親指シフトのキーボードを使わせています(笑)。
ローマ字入力という喜劇(@カナかな団首領の自転車置き場)
http://d.hatena.ne.jp/kana-kana_ceo/20090326/1238008824
なんだって、そう「かな入力」を毛嫌いするのかな。
ていうか、なんたらいうメーカのノートパソコンが、Keyboard 配列を選べないってだけの話だろ。
これは最初の引用に対するコメントです。確かにノートパソコンではキーボードを選べないのは大問題です。特に親指シフトユーザーにとっては。まあ、これを言ったらきりがないので以下省略。
キーボードといふ喜劇(@大和但馬屋日記)
http://d.hatena.ne.jp/yms-zun/20090326
ワシはキーボードを用ゐた日本語入力といふ仕組自体に全くもつて興味はないが、それを必要とする人がキーボードの品質なりかな漢字変換システムの変換精度の向上を気にするのは当然だと思ふ。どうせ使ふならいい道具を使ひたいに決つてる。
まさしくその通りです。一つ付け加えれば、使いやすい道具を選ぶことは社会的にも意味があることです。もちろん、使いやすさのような多分に主観的な要素が入るものについては、なかなか社会的なコンセンサスを得ることは難しいわけですが、それでも良いものを選ぶことの社会的意義はあると考えます。
キーボードの配列ごときでコミュニケーションに支障をきたすなどと本気で思つてゐるのだとしたら、まさにこれこそ喜劇といふものだらう。
日常的に日本語を話す日本人が英語話者とのコミュニケーション能力を磨くには、日本語と英語の両方をちやんと使へる様になるしかないだらう。
コミュニケーションに大事なのはもちろん中身なので、あとはそれをどのように使いやすく効率的にできるかという問題です。文章を読む人はそれがどのような道具を使って作られたかは分かりませんし、興味もありません。そんなことはどうでも良いからです。ですから、この引用で言っていることはその通りです。
ただ、その上で文章を作る人にとっては良い道具を選びたいのも事実で、これは一つ前の引用に書かれている通りなのです。
今から親指シフトを強制されたなら文句を垂れつつすぐに適応するだらう。
強制はしませんけれども、使っていただけたらありがたく存じます。文句を言う前に使いやすさに驚かれることを保証します(笑)。
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