Re: 表記のゆれと親指シフトを選択するということ(@親指シフトで日本語にこだわる)
日本語の表記のゆれにどのように対応するか。そのことと親指シフトを選択することはどのように関連があるのか。
http://pub.ne.jp/okeydoke/?entry_id=118195
日本語を使って検索や文書の作成を行っている時、表記のゆれは避けがたい。
(中略)
ここであえて私はこう表記すべきだと言い切らないようにしている。
どのような言葉でも生きているものである以上、変化は避けられません。一方で、言葉は規範を強制するということでコミュニケーションを成り立たせているものなので、変化をどの程度許容するかは常に悩ましい問題です。
これが文字が入ると複雑さがさらに加わります。一般に文字は発音に比べて変化が少ないと考えられるため、発音を文字にするルールはどのようにうまく作ったとしても、時が経つと対応が困難になる場合が出てきます。
文字の入力をコンピューターでやるとなると、輪をかけて難しくなります。発音を重視した方法をとるか、表記を重視した方法をとるか、まったく別の方法を考えるか、今も試行錯誤が続いていると言って良いでしょう。
例えば、中国語では方言による発音の差は大きいが、書かれた文章はかなり標準化されるいるとも聞きます。こうした環境でどのような文字入力の方法が適当かというのは難しい問題です。
日本では、コンピューターで日本語を使うということを考え出したころから、いろいろな工夫がされてきました。そうした環境で、かな漢字変換やローマ字かな変換などの技術も生まれたのです。
そして親指シフトもそうした努力の一環として生まれました。親指シフトを社会として捨てることは、大げさに言えば、上に述べた「コンピューターで日本語を使う」ということのために費やされてきたこれまでの努力を捨ててしまうことにつながるのではないかと思っています。
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