Re: ワープロはいずこ(@まるよし講読)他1件
ワープロ専用機での親指シフトの議論です。
http://railway.cocolog-nifty.com/hyogen/2006/04/post_1f72.html
OASYS専用機と親指シフトにこだわるファンは多い。プロの文筆業の人にも愛好者は結構いるそうだ。そういう人たちは、専用機製造中止の気配を察して、5~6台買いだめしたりもしたそうだ
こういう話はあるようですね。確かに、ワープロ専用機は文章作成のことを考えれば、余計な機能もなく、その分、具合が悪くなる可能性も少ないというのも当たっているかもしれません。
また、自分の使い慣れた環境を維持するために、個人でできる防衛的行動をとるというのも理解できます。
ただ、このように言うと文筆業の方に叱られるかもしれませんが、上記のような行動が許されるのは、書かれたものの内容だけで判断してもらえるという強みがあるからのような気がします。
内容さえ良ければ、ワープロソフトのファイルだろうが、手書きだろうが、場合によったら口述筆記のテープだって受け取ってもらえるかもしれません。だから、ワープロ専用機のアウトプットのように最低限、印刷された原稿ができれば相手は受け取ってくれます。
普通のオフィスワークではこのような訳にはいかないことが多くあります。同じ仕事をするチームやお客さんからの要求で、決まった形での成果物(例えばワードの文書ファイルといった形)を求められることが普通です。このような環境では、アプリケーションも自分の好きなものという訳にはいきません。
それでも親指シフトを使うことは意味があります。なぜなら、親指シフトだろうがローマ字入力だろうが、あるいは口述筆記で秘書に入力させるのであろうが、できたものからは入力の方法を区別はできないからです。だから、入力の方法は自分が使いやすいものを使うことが一番良い方法だし、それができる環境を用意することが社会的にも意味があるのです。
こうした考え方が社会的に認知を受けるためには、個人で自分の環境を守るだけでは十分ではありません。社会に対して、粘り強く訴えていくことが必要になります。親指シフトに関していえば、社会が認める形で存続を図っていかなければなりません。だから、親指シフトのワープロ専用機を自分のために確保することだけでなく、パソコンを使った作業でも親指シフトが使えるようにコミュニティーとして努力していくことが必要なのだと思います。
ワープロ談義でなんたらかんたら(@法務の国のろじゃあ)
http://rogerlegaldepartment.cocolog-nifty.com/rogerlegal1/2006/04/post_1616.html
親指シフトはやはりすごいとか今だに指が覚えているとか(「はときいん」←右手)
(中略)
でもノートで親指シフトでワードに入力ってのは・・・まぁ郷愁を感じる世代のはかなき願望なのかもしれませんなぁ
親指シフトはワープロ専用機のためのものだけではなく、いろいろなハードウェア、OS等で使われる技術です。ワープロ専用機というハードウェアのジャンルがなくなっても、OSがバージョンアップを繰り返して、少し前のものとは似ても似つかないものになってしまっていても、親指シフトの基本的考え方は変わらず、使われ続けているのです。
親指シフトを生み、育てたワープロ専用機の良さ、特に日本語入力に特化した時の使いやすさに関しては異論を唱えるものではありません。ただ、親指シフトはもっと広い活躍の場があるので、そのフィールドを狭くしてしまうのはもったいないことだと思っています。
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コメント
ワープロ専用機はワープロ専用機でいい面もあるし、その快適さはパソコンで置き換えが利く様な代物ではないと思います。(まず落ちないし)
だから、一台だけ(しかも、二個一で)残してあります。たまに使ってあげる程度ですが。
当然パソコンで親指やる価値は多大にありますし、そこにOASYSだのWordだのをいれてワープロ的に使うという行為を否定するものではありませんが、専用機の魅力はパソコンが勝てるものではないですね。
ただ、たまにしか起動しない現実は受け入れる必要がありますが(^^;;;
投稿: 珠洲 | 2006/05/02 10:14
珠洲さん
ワープロ専用機の快適さや良さについて私は異論がある訳ではありません。私も、まったく使わないOASYS30AF3をどうしても処分できないですし(^^;;;
私が気になるのは親指シフトの良さとワープロ専用機の良さをあまり密接に結びつけてしまうことは、親指シフトにとって良いことなのかということです。
両者を一緒に語ることによって「ワープロ専用機が世の中に受け入れられなくなったのだから親指シフトもこれからは意味がない」という議論に勢いを与えてしまうのではないかということを心配します。
この議論は私はまったく間違っていると思いますが、いかんせん、いろいろなところで目にします。
事実は反対で、ワープロ専用機という製品ジャンルよりもいろいろなOSよりも、親指シフトははるかに長生きしてきたのだし、これからも生き延び続けると思っています。
ワープロ専用機を愛する人たちからは叱られるかもしれませんが、親指シフトをこれからも売っていこうとする者から見れば「親指シフトを道連れにしないでくれ」(笑)という気持ちなのです。
親指シフトもワープロ専用機も良くできたものです。でも、どちらがこれからも大事なのかということを考えたら、つらい選択ですが親指シフトをとるのだと考えます。
投稿: 杉田伸樹(ぎっちょん) | 2006/05/02 21:26
なるほど・・・たしかにそれは同意せざるを得ません。
親指シフトとワープロは別物であると。
携帯にすら親指シフトが進出する時代ではありますが、過去の富士通殿のOASYSとの括り付け戦略が今になって尾を引いていると。
ただ、FM-TOWNSやFM-Rにも対応機が出ていたことから、括り付けてばかり居たわけでもなく・・・ただ、AT互換機へのスイッチがいささか遅れた感はありますが。
それはそれとして、いまだにOASYS=親指シフトな印象を持つ方が多いのは確かですね。Knoppixの新版も出ていることですし、Linuxを再開したいですね。こうした地道な成果が、先入観を分離するきっかけになるかもしれません。
投稿: 珠洲 | 2006/05/02 22:53
珠洲さん
LinuxについてはSCIM-Anthyという素晴らしいものができて、親指シフトへのハードルはとても低くなっています。こうした努力が続いていることも、親指シフトの重要性を証明しているし、「先入観を分離するきっかけになる」ことなのだと思います。
Linux関係では、おくまさんがかなり書いています。
http://oyalinux.exblog.jp/
http://oyastep.exblog.jp/
http://oyarest.exblog.jp/
http://oyaden.exblog.jp/
tree3yamaさんもいろいろ試されています。
http://d.hatena.ne.jp/tree3yama/
また、私もLinux関係は別のブログにしてあります。
http://thumb-shift-on-linux.seesaa.net/
よろしかったらご覧になり、試してください。
投稿: 杉田伸樹(ぎっちょん) | 2006/05/02 23:32
ワープロ専用機はとうとう無くなったんじゃなかったでしたっけ?
わたしは10年ぐらい前から「ワープロはきわめてぜいたくな機械だ」と主張しております。
PCをめぐる市場の動向は「機能が低くても安い方が良い」という方向に向いているようで、ソフトもハードも面白くて特徴があるものが減っています。
もっと色々な品物があって当然だと思うのですが、親指シフトキーボードも店頭ではなかなか見ることが出来ませんし、第一秋葉原のPCショップが減っているですよね。
問題だと思いますね。
投稿: 酔うぞ | 2006/05/03 15:32
酔うぞさん
OASYSについて調べてみたら、製造終了になったのは、一番遅い機種で2000年11月でした。製造終了後6年経つと、修理ができなくなる場合もあるということですから、もうすぐに迫っていますね。
ワープロがきわめて贅沢な機械だ、というのは、客観的にみてその通りだと思います。世の中で考えているように、単機能だから安上がりというのは間違いです。プロの道具はたいてい単機能ですが、安くはありません。
パソコンは、間に合わせのものを組み合わせて何とか動くものをでっち上げてきたという歴史があるような気がします。そうしたものをみんなが使っているわけです。まあ、普段使いするのにそんなに良いものじゃなくてもいいじゃないか、というのは通りやすい理屈なんで、オフィスのようなところはそうなってしまいます。
でも、知的生産のためには使う人が一番使いやすいものを用意することが生産性を上げる重要な手段になるので、そのような環境を作り出すことは組織のマネジメントとしても必要だと思っているんですけどね。なかなかリアルの世界はしぶとい。
ともあれ、親指シフトもしぶとさでは負けない(笑)ので、機会をとらえて宣伝することが必要だと思います。
投稿: 杉田伸樹(ぎっちょん) | 2006/05/03 17:12
こんにちは。「まるよし講読」のまるよしと申します。このたびは、手動トラックバックありがとうございました。
さて、わたしの記事ではOASYS専用機を求める事情を書きました。この記事の主眼は、あくまでワープロ専用機の良さです。しかし一方、OASYSのユーザーでなければ、これほど専用機を今更欲しいとも思わなかったであろうことも確かです。
OASYSは、極力手書きの感覚を保った入力ができることを旨としているところが魅力だと思います。特に日本語を専門に扱う立場からは、それを心地よく感じます。罫線の引き方、それを使っての表の作り方、上書モードが基本であること、それに基づく挿入や削除の手順、といった操作方法にもそういうコンセプトはあらわれています。そして、親指シフトキーボードも、そのコンセプトを実現するため組み込まれた要素の一つであるように捉えています。
そういう意味で、OASYSと親指シフトとを切り離して考える、という発想がなかなかできません。わたしは一流の文筆家でもなんでもありませんが、自分で使う文書と他人に送る文書とをはっきり分別して仕事ができる、そして英文をほとんど入力しなくていい環境にあるため、OASYSにこだわることができます。
事務文書はわたしも当然Wordで作成しますし、他人から送ってくる文書もWordですから、Wordをパソコンに入れておかないと仕事になりません。そしてもちろんWord文書を作成する時も、親指シフトキーボードからJapanistを使って入力しています。今このコメントも、親指シフトキーボードで入力しています。
ですから、わたしも親指シフトキーボードそのものの存続は望みたいところです。機会あるごとに親指シフトのすばらしさを周囲に啓蒙はしており、成果も上がっています(笑)。ただ、キーの並びを二種類マスターするという手間を補って余りあるメリットを、JISキーボードに慣れきった人に説くだけの材料がなかなかないのですね。
何事につけ、少数派であっても、それを選択できる状態を保証しておくことは重要ですが、親指シフトに関して、それをどう説得していくか、妙案になかなか思い至りません。
投稿: まるよし | 2006/05/03 20:34
まるよしさん、こちらにお越しいただきありがとうございます。
確かに親指シフトとワープロ専用機OASYSを分けることが難しい場合もあるのだと思います。親指シフトを産み、育ててきたのがOASYSですから当然です。
とはいえ、現在、ワープロ専用機OASYSを使い続けることが許されるのは、まるよしさんのように仕事のためと自分のための二つの文書作成ニーズをきちんと分けられる人、あるいはどんな形の原稿でも出版社が受け取ってくれるような文筆業の人などだと思います。
親指シフトが社会と親和性を持って生き延びていくためには、普通のオフィスのようなところである程度使われるようにならないとだめなのではないか、というのが私の仮説です。
これはある程度の広がりを持ったものでないといけないので、それなりに大変な仕事ではあります。それでも「成果が上がっています(笑)」と言える人がいるということは、不可能ではないはずです。
で、こっそりで良いですから、成功の秘密を教えてくれませんか(笑)。
投稿: 杉田伸樹(ぎっちょん) | 2006/05/03 22:06
わたしのように古くからコンピュータに関わってきた(35年以上ですね)にとっては、PCのパーソナルとは「個人が許容できる価格」という意味に等しいのです。
具体的には自動車と同じぐらいの価格ですかね。
ところが、今やパソコンは「入学祝いにパソコンかゲーム機か」といったレベルになっているですから、そこに「高級」とか「上等」とかを求める方が無理と言わざるを得ません。
ワープロというのは万年筆とか筆なのでしょう。
そしてパソコンはボールペンだ。
ボールペンに筆や万年筆と同じ事を要求出来ないのは確かですが、ボールペンも進化するわけで、今では実用範囲は全部ボールペンでOKで機能的に「ペンじゃなくちゃ」とは言い難くなってきています。
(話がボールペンになったので、ご紹介する絵はボーペンで描いてます)
http://youzo.cocolog-nifty.com/data/2006/04/post_56f0.html
昔、明らかにペンが減ってシャープペンシル・ボールペンに移行し始めたころに「万年筆には・・・・」という話があったのですが、いまや万年筆は衝動買いは出来ない価格になっています。
そういう意味で「ワープロに大金を払っても良い」ということであれば、ワープロも存在できるでしょうが、ものすごい金額になるでしょう。
ハイテク機器では贅沢を許すわけにはいかない、自動車で言えばF1はどう考えても普通の意味での自動車とは無縁な品物ということとに等しいですね。
ハイテク機器は工芸品になり得ない(例外はF1など)ので、贅沢品が存在しないということですね。
その点、ソフトウェアは贅沢なソフトウェアがあっても良いと思うのですけどね。
投稿: 酔うぞ | 2006/05/04 11:15
酔うぞさん
ワープロが万年筆か筆で、パソコンがボールペンというのは分かりやすいたとえですね。
高級品がそれなりの作りをされている(そして、それなりの値段をしている)のは当然で、あとはそれを求める人が本当にいるかどうかというはなしになります。こうしたものを求める層は、いつの時代にも結構いるものです。社会全体のレベルといったことにもあまり関係ないような気がします。
普段使いのものに良いものが使えるようになるというのは、本当の意味で豊かな社会なのではないかと思います。間に合わせでない、良く考えられたものが誰でも使えるようになるのは、社会全体がレベルアップしないとできません。
日本は、文字の入力に関して80年代はじめからワープロで真剣に考えられ、真剣に使われ試されてきたものを、パソコンで簡単に捨ててしまったのだと思います。これまでの資産をきちんと継承できないほど日本は貧しくなってしまったのかという気持ちです。
投稿: 杉田伸樹(ぎっちょん) | 2006/05/04 20:38