Re: Fedora Core 用 scim-anthy(@キーボード配列についてのあれこれ)
Linuxでの親指シフト入力は、少しずつでも良い方向に向かっているようです。
http://d.hatena.ne.jp/tree3yama/20051020
最新の 0.7.1 になってます。
これで、NICOLA配列の選択、カスタマイズが可能となりました。
Linuxについてはまだ勉強が足りず、よく分かっていないのですが、いろいろな配布用の版(ディストリビューション)があるようで、それぞれ特徴を持っているとのことです。
上記の記事はその中でFedora CoreというディストリビューションでNICOLA配列(親指シフト)が使えるようになったということです。それを可能にしているのがscim-anthyというもののようです。
別のディストリビューションであるKNOPPIXでもscim-anthyを使えば、親指シフトを使える
http://d.hatena.ne.jp/maple_magician/20051009/1128832284
http://www.eurus.dti.ne.jp/%7Eyfi/oyayubi_knoppix.html
ようですから、ディストリビューションの違いを越えて同じ使い勝手を実現できることになる訳で、とても素晴らしいものに思えます。
技術的なことは分からないので、その他のディストリビューションでも使えるのかは分かりませんが、いずれにせよ、どのような環境でも親指シフトを使いたいという目標には一歩近づいているように思えます。
こうして見ると、私がこれまで何度も言ってきている「親指シフトのユーザーはどんな環境でも(OS、ハード、言語・・・の違いにかかわりなく)親指シフトを使いたい」ということの現れであり、それに対応してくれている人がいる、ということなのではないでしょうか。
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上記に関して、最近気づいたことがあります。
標記のブログの別の日の記事
http://d.hatena.ne.jp/tree3yama/20050409
経由で見つけた、論文
http://web.archive.org/web/20030608222514/http://www.sonycsl.co.jp/person/masui/PenInput/tcode
(漢字直接入力を提唱されていた山田尚勇さんのものです)の中に、次のような文章を見つけました。
異なるキーボードと本体、すなわちワープロ、パソコンなどの処理系ハードウエアとの接続インタフェースを可能な限り規格化し、どのキーボードも全機種に接続可能にすることである。そうすれば文字配列の統一はまず必要がなくなる。そしてユーザーは、「包丁一本さらしに巻いて…」ではないが、自分の手に合うキーボードと、自分の好む入力システム対応のフロッピーディスクとを携帯しさえすれば、どの場所、どの機器でも簡単に仕事ができるようになる。
なお、これは山田尚勇さんの主張というよりは、当時(1980年代)の学会等での議論のようです。
これはまさしく、私が常日頃思っていることです。私にとってショックなのは、私のブログでも「包丁一本さらしに巻いて」の表現を使って書いていたことです。
http://thumb-shift.txt-nifty.com/contents/2004/09/re_nicola.html
山田さんのこの論文をどこかで見て、それが頭にあって書いたのかもしれません。もしかしたら、まったく独立に考えられたのかもしれません。
いずれにしても、私の考えていたことは既に1980年代から考えられていたことなのです。
最近読んでいる1990年頃のワープロに関する本でも、日本語入力に関する議論がずいぶん大きいパーセントを占めています。ワープロは文章を入力するのが主な仕事ですから、当然といえば当然ですが、それにしても、当時の問題意識の高さには改めて驚かされます。
これからの情報関連技術(IT)では単純なハードやソフトの性能よりは、使い勝手やユーザー・インターフェースの重要性が見直されてくるのではないでしょうか。親指シフトが25年使われ続けていること、OS等の枠を越えて共通に使えるようにいつも努力がされていることの持つ意味は今こそ重要なのです。
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コメント
わたしは1973年ぐらいから大型コンピュータを使い始めましたが、この頃に日本語をプログラム内で扱うことは考えられず、あくまでもデータとして扱うという形でした。
だから、日本語のデータを作るのには時間を掛けてもOKだったわけで、逆に言えばプログラム内で直接日本語データを触ることは極めてマレというかやりませんでした。
日本語データはいわば小包のようなものでした。
だから「日本語を手書きではなく機械入力したい」というのはマニュアルとか社内文章の作成のために欲しいという割と現場的な発想でした。
というのは公文書などには和文タイプがあったからで「見栄えの良い公式文章を作る」というのとも日本語入力のニーズは一致していなかったのです。
パソコンに日本語入力がきちんとできるようになったのは16ビット化の後の話で、コンピュータの発展史の観点からは、大型コンピュータを使用していた技術系の仕事がパソコン化した後に日本語も使える、という展開になったと言えます。
だから、Linux も後回しとなりました。
そうしてようやく「日本語入力も環境として捉える」という話になるわけですから、わたしは1980年代の日本語入力議論は学術問題であったし、それは現在のユビキタス環境論と同じような位置づけだと思うのです。
今ではコンピュータと言えばパソコンのことであり、日本語入力と言えば出来るに決まっているとなっているわけですから、その上で「なんでローマ字入力じゃなきゃいかんのだ?」という議論になって当然だと思いますね。
つまり、たまたま1980年代に同じ議論があったとしても、それは現実化しなかったという事実は重要で今とは位置づけが違うことには注目するべきです。
それにしても、キーボードの扱いについてもっと標準化して欲しいものです。
先日、よそのPCを操作していてビックリしたのは、「Fn」キーが最下段の左端にあったことです。
端には「Ctrl」があると思い込んでいたので、これは驚いた。
右側の矢印キーの配置などについて色々と問題があることは広く知られていますが、まさか左側の機能キーの中のメジャーな「Ctrl」キーが内側にあるキーボードをPCメーカが作っているとは思いませんでした。
投稿: 酔うぞ | 2005/10/23 08:59
酔うぞさん
大変詳細なコメントありがとうございました。
前半は基本的に理解できますし、同意します。次に出てくる
>だから、Linux も後回しとなりました。
については少し分かりにくいのでご説明していただけますか。これは、「linuxが出てくることが遅れた」なのか「(サーバー用途などが先行した)linuxにおける日本語環境の議論が後回しになった」なのでしょうか。
1980年代が日本語入力の問題に関してどのような時代だったかは、もう少し歴史を復習する必要があるのかもしれません。
一方で、商業的競争を含むさまざまな日本語入力方法の間での優劣の比較が盛んであったのに、日本語入力のプラットフォームはワープロ専用機という、これまた会社毎に違うものが使われていたということだったのではないでしょうか。
そのような環境では、酔うぞさんの言われるように、日本語入力問題は学術的理論でしか考えられなかったのもいたしかたないのかもしれません。
今はたとえOSやハードが異なっても、日本語入力の方法は共通に使えるようにすることが、少なくとも理論的には容易になってきていますし、親指シフトについてはさまざまな人の努力でそうした環境が維持されています。
ですから、「その上で『なんでローマ字入力じゃなきゃいかんのだ?』という議論になって当然だと思いますね。」というのには同意できます。
あとは、個人の使い勝手追求がどの程度許されるかという技術的あるいは社会的な問題になってくるのかもしれません。「包丁一本さらしに巻いて」というのも、いくつかありえる解の一つの可能性かもしれません。
投稿: 杉田伸樹(ぎっちょん) | 2005/10/25 00:01
>>だから、Linux も後回しとなりました。
>
>については少し分かりにくいのでご説明していただけますか。
>これは、「linuxが出てくることが遅れた」なのか
>「(サーバー用途などが先行した)linuxにおける
>日本語環境の議論が後回しになった」なのでしょうか。
どちらかという後者ですね。
そもそもコンピュータの使い方全体として量と種類と質といった考え方をすると、量の分野では制御とか通信という人とのインターフェイスがあればよい程度ものが多いわけです。組み込み用の TRON の成功や携帯電話の OS が極めて限定されているのにビジネスとしては大成功なのを見れば分かります。
種類となると、使用言語やペイント系とDRAW系、表計算とデータベースのような一見同じように見えながら細かく分類されて実用化されている例ですね。
質というのは言わば純技術的な問題で莫大なデータを扱うとか三次元モデルをグルグル回すなんてことでしょうか?
このような分類をしてみると、日本語入力は明らかに「種類」の問題であって、インターネットの実用化でドイツ語・フランス語の表現が英語表記で代用されるようになったことを見ても「種類不足」であると言えるでしょう。
プログラム作成はこの例だと「量」の世界に極めて近く、実際にインドなどに発注するといった国際間のコストダウン戦略が使えます。
これは基本的に日本語など「種類の問題」を限定しているから出来る事業で、逆に考えると日本語入力はコンピュータ全体の「量」から言うと少数派なのです。
LINUX システムの用途の最大の動機は大型>UNIX というシステム運転のコストダウンでしたから、日本語入力=事務処理が後回しになったのは当然でしょう。
これに対して、PCはターミナルとして何でもありの「ものすごい多種の処理」を要求されたわけで、日本語入力も強い要求があるのでしょう。
これはわたしが大型コンピュータを使用していたときに日本語入力をデータとし扱っていたというのと同じだと思います。
PCで日本語入力をしてデータとして大型コンピュータが処理できれば問題無いわけです。
大型、LINUX、PCが全部同じように日本語入力が出来て、音楽の演奏が出来て、通信、DVD鑑賞が出来なければならない、という主張をしたら「ムチャクチャだ」と言われると思いますが、昔の親指シフト論の中には気楽に「全ての」と言っていた人も居ます。
いわばワープロ派 vs (大型)コンピュータ派の論争だったのでしょう。
ひょっとするとジャストシステムはキーボード内にATOKをフラッシュメモリで組み込んだ親指シフトキーボードを売り出す、なんてことにすると立ち位置がはっきりするのかもしれませんね。
キーボードを取り替えると、辞書も変わるということならよそのPCも自分の辞書で使えますからね(^_^)
投稿: 酔うぞ | 2005/10/26 08:31
酔うぞさん
詳しい説明ありがとうございました。お考えになっていることはだいたい分かってきました。
一つ考えたのは、辞書やIMEは必ずしも物理的なキーボードに付属させる必要はないのではないかなということです。
物理的なキーボードは持ち歩くとしても、辞書やIMEはたとえばネット上でいつも自分用のものにアクセスできるようにしておくという、究極のシンクライアントのような構造にしたらどうかなということです。
これなら少なくとも文字入力に関してはどこに行っても同じ環境を使えるということになるかもしれません。
私が考えているのは、電力のネットワークのようなもので、コンセントにつなげば常に電力が得られるという社会的インフラができれば、それをベースにいろいろな機器がつなげるというものです。
power supplyという言葉がありますが、これに対応するものとしてcomputing power supplyというものが社会のインフラになったら、後はヒューマン・インターフェースの部分は自分の好きなものを一貫して使えるということになるのではないかというものです。
まあ、これは妄想ですので(笑)あまり真面目にとらないようお願いいたします。
投稿: 杉田伸樹(ぎっちょん) | 2005/10/27 23:54