子どもにどのような日本語入力を教えるかについての議論です。
http://orbit.cocolog-nifty.com/supportdiary/2005/07/post_48f5.html
どうもローマ字入力というものを完全に敵視しているカナ入力の人って、やっぱり多いようですね。
まぁ気持ちはわかるんですけどね…。
この意見は、そもそも、
http://blog.livedoor.jp/ayetown/archives/25356648.html
で書かれた
教科書にないから低学年はカナキーを使う。ローマ字を習ったらローマ字キーに変える。これは二重の負担ではないか? 始めからローマ字にすればいい。
との意見に対して、私を含む何人かが反対の立場からトラックバックをしたのに対しての反応です。この議論を少し私なりに整理をしてみます。なお、この議論はいろいろな方のブログでの記事、コメントやトラックバックで広がっています。こうなると議論の筋道や前後関係をたどるのも大変になってしまい、あるいは別のところでしている議論と重なってしまうところがあるかもしれませんことをご了解下さい。
0.明示的な引用
議論の中身に入る前に、ささもとさんの記事の書き方について一つお願いです。
トラックバックしている記事に関して意見を述べる時は、できる限り、どの部分に関して言っているかを引用で示していただきたいと思います。こうすれば具体的にどの部分についてのことかがよく分かり、間違いも少なくなるからです。
これは既にかえで(yfi)さんが
http://d.hatena.ne.jp/maple_magician/20050707/1120744273
でお願いしていることと通じますし、鈴見咲君高さんが
http://suzumizaki.blog6.fc2.com/blog-entry-73.html
で「印象」として述べている戸惑いを減らすのにも役立つと思われます。
ささもとさんは、かえで(yfi)さんのブログのコメント
http://d.hatena.ne.jp/maple_magician/20050707/1120744273#c
で、
「いくつかの記事・コメントを見て総合的な感想」ですので、残念ながら、どのコメント・どの記事の「特定の記述」かを指定することはできません。
と書かれていますが、議論を進めたいとするなら、なるべく具体的な引用をされる方がよろしいと思います。そうでないと、少し強い言い方になるかもしれませんが「斬り捨て御免」で記事を書いているように見えてしまいます。
1.ローマ字教育と文字入力技術の問題
ささもとさんは、同じ記事の中で
ところが、何人かの人のブログやそれに付いたコメントでは、キー入力方式の問題ではなく、ローマ字教育がどうだ、ローマ字だと脳の使い方がどうだ、と、論点が完全に脱線転覆状態。
と書かれていますが、この議論の発端が
http://blog.livedoor.jp/ayetown/archives/25356648.html
であったことを考えるべきであると考えます。この記事は明らかに学校教育の中でのローマ字教育の問題と、キーボートによる文字入力の問題を結びつけて論じています。ですから、それに対してのコメントやトラックバックした記事が、両者の関係を論ずることは当然のことです。その議論の内容が正当なものであるか、あるいは読んだ人が気に入るかは次の問題で、とり上げたことが「脱線転覆」だとすれば、議論はできません。
なお、「ローマ字だと脳の使い方がどうだ」というのは、具体的にどの部分を指しているのかはっきりしませんが、文字入力の技術でどのような人間の能力がどのように使われているかというメカニズムを知ることは重要なテーマであると私は考えます。
しかし、この分野での知識の蓄積はあまり多くないというのが実情ではないかと考えます。このため、この問題を語る時は、ある程度感覚的な言い方しかできません(もし、専門家できちんとした議論ができる方がいましたら、歓迎です)。
私が、自分のブログの記事
http://thumb-shift.txt-nifty.com/contents/2005/06/re_3_ad9c.html
のコメントに書いた「ローマ字入力という名前が適切か」という問いは、この問題への取っかかりを目指したものです。
2.文字入力技術の他の技術の関連
どうもMS-IMEとATOKの違いについて、かなり軽視されている方がほとんどです。
この2つは、ローマ字でもかなでも関係なく使えるのですが、「日本語入力」という観点で考えると、完全に似て非なるものである、ということを。
(中略)
でも、時代はWindowsへ、Wordへ、と移っていき、ATOKはどんどん使う機会がなくなり、今では完全にMS-IME一辺倒です。
(中略)
それに、どうしたわけか、学校関係者は一太郎愛好者が多く、大量においてある学校のパソコン全てに、わざわざ公費を投入してATOKをインストールしてあることがある、というのが不思議で仕方がない。
最初に「ローマ字でもかなでも関係なく使える」と、入力方式とIMEの関係について正しく認識されているのに、どうして後の文章ではワープロソフトとIMEをこのように結びつけて論じているかが疑問です。
確かに、ワープロソフトを買えばIMEが付いてきます。一太郎を買えばATOKが付いてきますし、OASYSを買えばとJapanistが付いてきます。そうしたワープロソフトを起動すれば、IMEを推奨のものにしませんか?と聞いてきます。
しかし、IMEの選択はワープロソフトとは独立であるべきです。なぜなら、文字の入力はワープロソフトだけで必要なのではなく、おそらく多くのソフトで必要なものだからです。使うソフト毎に文字入力のような重要なユーザーインターフェースが変わっては仕事になりません。
つまり、ワープロソフトとIMEをくっつけるのは単に売る側の事情であり、ユーザーから見れば迷惑な話です。
同様の理屈でOSとIMEをくっつけることも私は疑問に思っています。
残念ながら世の中の趨勢は、独立したIMEの存在を難しくしているようで、WXGやVJEといった特徴のあるIMEは商業的に成り立たなくなりました。
3.OSの選択と文字入力の選択の関係
なぜあなたはWindowsを使っているんですか?
どうしてMacintoshやLinuxを使わないのですか?
Windowsを使っているのなら、慣れるのは簡単ですよ?
ローマ字入力とかな入力に関しても、大した違いはないことに気がつきませんか?
学校でWindowsを使うのも、理由としては同じはずです。
この問題に関しては、既に鈴見咲君高さんが
http://suzumizaki.blog6.fc2.com/blog-entry-74.html
で、疑問を投げています。
文字入力の技術とOSを比べる手がかりとして、それぞれの技術の時間的サイクルを比べてみましょう。このブログの副題に、親指シフトが25年経ったことを書いてあります。NECが開発、商品化した入力方式であるM式(最近、ソフトとして復活している)も同様の歴史があります。JISかな入力やローマ字入力はもっと古いでしょう。
これに比べて、OSはウィンドウズにしろマックにしろリナックスにしろそんなに長い年月を経ていません。さらに、その更新サイクルはずっと早く、初期のバージョンと最新のバージョンでは見かけや使い方が大きく異なるものもあります。
何を言いたいかというと、文字入力の技術はOSに比べて、より基礎的な技術であり、一度身についたものを後で根本的に変える必要が少ないものなのです。私が「読み書き算盤」と言ったのはそのような意味合いなのです。なお、算盤を入れたのは、決まり言葉として定着しているためで、現在の世の中での必要性とは関係なく使っていることを付け加えておきます。
これに対して、OSは一度覚えたものが役に立たなくなる可能性が往々にしてあります。もちろん、だから一つのものだけを使うことが正しいのかというささもとさんの問いは正当なものではあります。ただ、それを文字入力の選択の問題と比較することは間違いであり、文字入力とOSという技術の性質の違いを考慮していない議論なのです。
さらに言えば、ささもとさんがOSの選択の問いをかな入力の人だけに投げている(ささもとさんの問いが比喩的なものであることは承知していますが)のもおかしなことになります。この問いはローマ字入力をしている人にも等しく投げられるべきです。
OSや個別のアプリケーションの使い方などは、必要になれば覚えるものです。実世界でお客さんからから「ウィンドウズのワード形式のファイルで結果をください」と言われたらそれに従うしかないでしょう。
文字入力の方法はそれと全く違います。同じ文章をローマ字入力とかな入力で作って違いが分かりますか。だから文字入力の方法は自分が使いやすいものを選ぶのが正しいのです。
終. 文字入力の技術
たかがローマ字入力程度で、ここぞとばかりに学校教育の批判をしなさんな。
ってことですね。
ローマ字だカナだ、と方式の優劣を論議しあうのは勝手だけど、それしか見てない状態で、学校教育うんぬんと語るのは感心しません。
リアルな世界にどのような働きをするかは確かに慎重に考えるべきです。ただ、「ここぞとばかりに学校教育の批判を」しているとまでは言えないと思いますけど。
ささもとさんのように実際に教育現場でのお仕事をされている方からすれば、現場も知らないで勝手なことを言うな、と言いたくなるのも分からないではありません。
でも、文字入力の技術はこれまでに述べてきたように、ITを使う上での基礎的な技術なのです。だから何にも増して多くの知恵を集めてより良いものにすることが必要で、教育をどうするかも大きなテーマとなります。時間も予算も人員も限られた中で、そして、白地でないところからスタートするという前提条件を考慮に入れるにしても、「教える側の都合」の一言で決めてはいけない重要な問題なのです。
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