Re: 打ちやすさと学習コスト(@みかログ)
みかげさんの考えるQWERTYローマ字入力の利点です。
http://blog.mikage.to/mika/2005/06/post_1846.html
あとは,よく見落とされている(?)のか,敢えて比較に出さないのかわかりませんが,学習コストも大きな影響があると思います.
QWERTYローマ字は学習コストがほとんど0です.
普通にPCを使う上では,英字配列は必須です.メールアドレスやURL,ショートカットキーなどを使うために必然的に覚えます.
ローマ字も,PCを使わないとしても,普通に覚えるはずです.英語を勉強するときにローマ字も覚えるでしょうし,ぐぐってみると今は小学4年生で習うようです.そうすると,どちらも必須の知識を組み合わせれば,ローマ字入力はできてしまいます.
新たにかな入力のためだけに配列を覚えたりする必要がないわけで,ここがQWERTYローマ字が指示され続ける理由なのではと思います.
少し長くなりましたが、大事な論点がいろいろあると思われるので敢えて引用しました。
最初に気になるのは、どのような人を想定して学習コストを考えているかです。既にアルファベットの入力ができている人かそうでないかにより、違いは出てきます。もちろん、パソコンを使うことは日本語入力だけでないのは確かですが、とはいえ、アルファベットの入力を覚えている、あるいは、覚えることを前提としている議論は精密さに欠けるのではないかと思われます。
もう一つは、アルファベットの入力とローマ字入力との関係です。たしかに、アルファベットのキーの位置を覚え、かなからローマ字への変換規則を知っていればローマ字入力はできるかもしれません。しかしながら、問題は、日本語を入力するのにスムーズに指が動くようになるかどうかにあります。
かな入力(親指シフトを含む)を推す人が時々言う「頭の中でかなからローマ字の変換をするのにエネルギーをとられる」感覚は、私も分からないではないのですが、ローマ字入力に慣れた人からは「そんなことはない。指が覚えていて勝手に動くんだ。」と反論されます。冷静に見ると、ローマ字入力をする人の言い分は当たっていると思います。
ただ、それだとすればみかげさんの言われるような、英字配列とローマ字の規則を組み合わせてローマ字入力ができるというのは、間違いでないにしてもやや違和感を覚える表現になります。敢えて言えば、アルファベットを知らなくても指の動きだけでローマ字入力を覚えることができるし、その方がタッチタイプの本質に沿った覚え方です。
私自身も、英文をタイプしたり、まれにはローマ字入力をしたりしますが、この二つは全く違う指の働きによるような気持ちです。ローマ字入力をしている人が英文の入力をする時にどのように感じるかは聞いてみないと分かりませんが、おそらく別のものとして感じているのではないかと推測しています。
それだとしてみれば、みかげさんの言われる「QWERTYローマ字は学習コストがほとんど0」というのはあまりにも問題を単純化していると私は考えます。
なお、入力方法に限らずいろいろなシステムをスイッチするかどうかについて、コスト・ベネフィット分析を使うこと自体は有効であると考えています。このブログのかなり前の記事
http://thumb-shift.txt-nifty.com/contents/2004/10/re_nicola_.html
でも、そうした分析方法の考え方を述べています。
ただ、コストの算定は純粋に技術的にできるものでなく社会的状況等にもよること、あるいはコストもベネフィットも将来の見通しに依存するもので不確定性があること等、一筋縄ではいかない問題も多くあることは留意する必要があり、そんなに簡単ではないと思っています。もっと言えば、簡単にできるのだったら親指シフトはもっと普及していると思っているんですけどね。
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コメント
元の文章を読んでいませんが、かつてあった議論そのものですね。
わたしはキーボードに本格的に触れたのはプログラムで紙カード鑽孔機のK29に触れた時ですから、コンピュータで日本語が出るなんのは夢の時代でした。
しかし、マニュアルを作る時にはローマ字と親指シフトを比較して親指シフトキーボードユーザになって現在に至ってます。
だからローマ字入力も問題なく出来ますがそれでも「なんだ?コレは」と思うことが多々あります。
「日本人に」なんてのが一番戸惑いますね。
NIHONNJINNNANNTE」ですよ。
いくらなんでもヘンでしょう。
それに元記事の方は最近のPC事情を本当に知っているのでしょうか?キーボードなんて普通のPCユーザは滅多に使いません。
PC操作にキーボードが必要ということ自体が既に必須ではなくなっていますもんね。
投稿: 酔うぞ | 2005/06/17 18:11
もし、その「かつてあった議論」が、【結果として選んだ配列が違う】という、ただ一点の違いがあるために発生していたのでしたら、それは「非常に勿体ない話」だと感じます。
日本語入力に関して言及されている方々は、【日本語入力に対して関心・危機感をお持ちの方ばかりである】という点で、広い意味では共通する考え方をお持ちのはず。
そうであれば、より多数派である「日本語入力に関して、まるで関心を抱いていない人」にアプローチするためにと「協力・理解」する事が重要なのかも…と考えています。
私は「かつてあった議論そのもの」をリアルタイムで体験していなかったものですから、正確なことを言う自信はありません。
しかしながら、おそらくは「かつてあった議論そのもの」からは、すこしばかり前進しているはずだ…と信じずにはいられません。
みかげさんのご意見に関しては、上記トラックバック「ローマ字入力の学習コスト from みかログ」を是非お読み下さい。
そこには、「今使っている配列」の縛りを超えた、今だからこそ出来る論議の仕方があるように思いますので。
出来ましたら、「みかログ」さんの「ACTも入れた比較スクリプト(*1)」と、親指シフトウオッチさんのリンク集にある「かな打!」さんの「そんなに速く打てますか?(*2)」についてもご覧下さい。
*1) http://blog.mikage.to/mika/2005/06/act_f042.html
*2) http://typing.cocolog-nifty.com/blog/2005/05/post_8fad.html
投稿: かえで(yfi) | 2005/06/17 19:12
酔うぞさん、かえで(yfi)さん
こうした議論は確かにこれまでもいろいろな場面で、いろいろな視点からありました。その背景にある技術的、社会的な状況も少しずつ変化していて、昔の議論が意味を持たない場合もあるし、本質的なところは変わっていないのかもしれません。何だか歯切れの悪い言い方ですみません。
議論はいつでも必要と思った人がすることは可能ですし、議論をすることに社会的な意味が見いだされれば議論は広がっていきます。
議論には議論のルールがあり、その中で正しいことを明らかにしていくことは、議論の参加者だけでなく社会的にも利益のあることだと思います。
元になったみかげさんの記事、私の記事、さらにそれに対するみかげさんの記事、そして、それぞれの記事に対するコメント等、議論が広がっていることは、この問題が何らかの意義があることを示していると思います。かえで(yfi)さんが言われているように、それは日本語入力に関心を持ち、そのことを表に出したいという人がいることのあらわれです。
こうした議論の連鎖が続くことを希望しています。ブログという場はそれを実現するのにとても良いツールだと思っています。
投稿: 杉田伸樹(ぎっちょん) | 2005/06/18 18:29
「普通のPCユーザ」とは?
PCで「文書作成」をするのは普通ではないのでしょうか。普通ではないのでしょうね。
「普通の日本人」は文字で情報を記録することは滅多にないわけですし。
投稿: shino | 2005/06/18 21:03
私も「かつてあった議論」ってのが、どういう議論だったのか知りたいと思う一人です。特に『英文キーボードによる日本文入力について』(日本文入力方式研究会資料, 1-1(1981年10月21日)および10-1(1983年5月11日))でキヤノンの坂内祐一らが示したローマ字かな漢字変換の優位性なんて、当時議論を巻き起こさなかったはずがない、と私個人は思うのですが、当時の記録が見つけられないのです。酔うぞさん、よければその「かつてあった議論」がどんなものだったのか、お教えいただけませんか?
投稿: 安岡孝一 | 2005/06/20 11:14
酔うぞさん、shinoさん
やや議論が分かりにくくなっているような気がします。言葉の定義や議論の方向の整理ができたらお願いします。
安岡孝一さん
詳しい情報ありがとうございます。「かつてあった議論」は、特定の論文や議論の場をいうよりは、ローマ字かな入力やかな入力に関する議論があるところ、だいたいいつも行われている議論、という程度に私は解釈していました。実際、この種の議論は2ちゃんねるから学術的論争までいろんなレベルで行われているように思います。そして、私の見るところ、議論の本質的なところはあまり違わないのではないかと推測しています。
具体的にどの程度掘り下げた議論があったのか知りませんが、私がいつも気になっているのは、例えばここでとり上げているコストの計算にしても、特定の面だけをとらえて例えばコストがほとんどゼロというように単純化をしてしまうことです。もちろん、時には単純化をすることも必要ですが、それが現実を反映しているかは常に検証が必要と思います。
なお、話の本筋とはやや離れますが、ローマ字かな変換に対して私が評価していることは、キーボードによる入力においてタイプライターのメタファーから離れて、ソフト的制御の利点を明らかにしたことです。
すなわち、JISかな入力は基本的に一つのキーに一つの文字を割りつけています(シフトキーを使う場合は例えばゃゅょをやゆよと同じキーにするなど1キー1文字のメタファーをあくまで守ろうという姿勢です)。
ローマ字かな変換はこの原則を無視して、2打鍵で一つの文字を組み合わせて作るという、ソフト的制御の方法論を持ち込みました。でも、基本的に間に合わせの配列を使ってしまっているので、使い勝手が悪いものになってしまっています。
投稿: 杉田伸樹(ぎっちょん) | 2005/06/20 23:36
安岡孝一さん
安岡さんのサイトにある
http://kanji.zinbun.kyoto-u.ac.jp/~yasuoka/publications/JST2005-5.pdf
を見ていたら面白いことに気づきました。
それはテレタイプのキーでは、左右の小指のシフトは、記号シフトと大文字シフトという二つの違った機能に使われていて、結果として1つのキーを3文字に活用していることです。
親指と小指という違いはあるものの、親指シフトと同じ考え方がこの時からあったことは初めて気づきました。
ただ、気になるのは、小指だと同じ手のシフトは使いにくいことです。これをどのように解決したかは興味があるところで、私の仮説は一度シフトキーを押せばその効果がシフトキーを放しても継続しているのではないかというものです。これは機械式では結構面倒な気がしますが、電気式なら実装もそれほどの困難はないのではないかと考えます。
投稿: 杉田伸樹(ぎっちょん) | 2005/06/21 23:20
Donald Murrayの印刷電信機のシフトキーは、ぎっちょんさんのおっしゃる通りロッキングシフトで、FIGキーで「数字・記号」に、CAPキーで「英大文字」に、RLSキーで「英小文字」にそれぞれロックします。現代のCaps Lockと違って、同じシフトキーを二回押したからといって解除されるわけではなく、そのシフトキーの機能が継続します。日本のテレタイプ(JIS X 6001)もこれを踏襲していて、上段キーで「英大文字」に、中段キーで「数字・記号」に、下段キーで「カナ」にそれぞれロックします。確かに機械式タイプライターとは、シフトキーに関する動作が違うんですけど、この辺のことってあまり知られてないのかなぁ…。
投稿: 安岡孝一 | 2005/06/24 10:02
安岡さん
RLSキーというのもあるんですね。
テレタイプの図をつらつら見ていて思ったんですが、スペースキーの段を除いて3段しかないんですよね。つまり、数字キーを押さなければいけないという面倒はあるにせよ、それでもキーを3段に押し込めることの方が良いとの判断があったのかと考えています。
これはある意味で親指シフトの考え方への援護射撃のようなところがあるのかなと思っています。親指との同時打鍵という考え方は当時は考えつかなかったのかな(スペースキーをどうするという問題はありますが)。
投稿: 杉田伸樹(ぎっちょん) | 2005/06/25 16:06
Donald Murrayの印刷電信機のキーが3段に収まっているのは、実は結果論だったりします。当時の欧米の印刷電信機は、リレー部分の都合で5ビットの文字コードを使うしかありませんでした。5ビットの文字コードだと表せるビットパターンは高々32個ですから、各文字コードを1対1にキーに対応させると、高々32個しかキーが使えないのです。で、1901年の時点では、スペースキーやシフトキーを含め、ピタリ32個のキー数の印刷電信機を製作したわけです。
ただし、Morkrum社(のちにMorkrum-Kleinschmidt社を経て、Teletype社となった)が1921年に発売した『Teletype Model 11』では、文字キー28個、シフトキー2個(CAPSとFIGSだけで小文字は使えない)、スペースキー1個の合計31キーとなっています。というのも32種類あるビットパターンのうち、オール0は無通信状態と見分けがつかないからです。一方、JIS X 6001の元となったMorkrum-Kleinschmidt社の『和文印刷電信機』(1927年運用開始)では、キー数を48個(文字キーが42個とシフトキーが2個と改行・復帰・削除・空白)にする方を優先したため、6ビットの文字コードを使用しました。ちなみに、これらのキー配列に関しては、『キー配列の規格制定史』のアメリカ編と日本編(↓の「安岡孝一」からリンクしておきます)をごらん下さい。
投稿: 安岡孝一 | 2005/06/25 18:53
安岡さん
>Donald Murrayの印刷電信機のキーが3段に収まっているのは、実は結果論だったりします。
なるほど。結構こうした偶然が未来に影響を及ぼすこともありますね。
「キー配列の規格制定史」のアメリカ編を読んでいたら、またまた発見をしました。
図3にあるBlickensderfer No.5は、やはり1キーを3文字に使っていて、この考え方がテレタイプより歴史をさかのぼれることです。
この時代は、おそらく機械式に制御をしていたと考えられ、テレタイプの場合のようなビット数の制約はなかった訳で、敢えて1キー3文字にした理由には興味があります。特に機械式だと実装は面倒だったのではと推測されるので、なおさらです。
1キー3文字を取り入れているのが、Blickensderfer、テレタイプ、親指シフトと3種類揃ったわけですが、新しいものが古いものの影響を受けているかどうか(私の直感は「受けていない」)興味があります。それぞれ独立に考えられたのだとすれば、この考え方がある程度普遍性を持ったものであることを示しているのではないかと考えています。
PS 日本の規格制定史では、ぜひ新JISについて検証してほしいとおねだりしておきます。
投稿: 杉田伸樹(ぎっちょん) | 2005/06/25 20:56
Blickensderfer No.5が、いわゆる3段シフトになっているのは、実は印字機構の制約によるものです。http://www.typewritermuseum.org/collection/timeline/detail.php3?machine=blick5&cat=ks を見てもらうとわかるのですが、Blickensderferは円筒状の印字ヘッドを有しています。キーを押すと、この印字ヘッドがクルリと回転したあと紙に叩きつけられるわけです。印字ヘッドには、28×3=84個の文字が刻まれています。この28がキーの個数で、3が各キー上の文字数です。こういう印字機構を実現しようとした場合、キー数が少なければ少ないほど、印字ヘッドの回転精度を下げることができるのですが、さすがに28キーを下回ると、アルファベットとコンマとピリオドのうちどれかをあきらめなければならなくなりますので、28キーというギリギリのセンで作られたようです。
なお、Donald Murrayは、たぶんBlickensderfer No.5の存在を知らなかったと考えられますが、Morkrum社は、初期の『Blue Code』(1910年発売)の印字機構に、円筒状の印字ヘッドを採用しています。
投稿: 安岡孝一 | 2005/06/26 00:43
安岡さん
貴重な情報ありがとうございました。ここでも偶然の持つ意味を考えさせられます。
円筒状の印字ヘッドは面白いですね。ある意味で後年のIBMのボール型印字ヘッドとも通じるところがあるように感じました。
投稿: 杉田伸樹(ぎっちょん) | 2005/06/26 18:52