Re: 携帯IMEの実力 by "ATOK for au" with RBK-110CN(@私的電脳快適論)他1件
このブログの前の記事のコメントでATOKのことを書いたら、かつどんさんが携帯電話に搭載されたATOKの実力について書いていたのを思い出しました。もちろん、外付けの親指シフトキーボードを接続しています。
http://katsudon.blog.ocn.ne.jp/kaitekiron/2004/09/_by_atok_for_au.html
この携帯へのキーボード入力はパソコンと比較しても遜色のない文字入力を満喫できます。
山口わごむさんのブログにある情報
http://wagomu.way-nifty.com/anbai/2004/11/_.html
によると、劇団『キャラメルボックス』のプロデューサーの加藤昌史さん(既にマックでの親指シフト使いとして有名)の本の一番最初に
「パソコン買って、まず何をした?」と。見た目にカッコいいとか、テレビも見られる等のオプションよりも、「まず入力でしょ」と。
と書いてあるそうです。
このブログの前の記事に書いた通り、文字の入力は情報機器を使う場合、およそどんな時でも必要になる技術です。それだとすれば、相手(=機械)が何であっても同じ使い勝手を望むのは自然なことであるといえます。
ところが、私が思うに、例えばパソコンでワープロソフトを使うということをどのような枠組みで考えているかというと、OSの上に日本語入力プログラムがあり、その上にアプリケーションソフトがあるということになっています。つまり、最初にOSの選択があり、その上で日本語入力プログラムを選び、そしてワープロソフトを選びます。この3者の選択は互いに独立な場合もそうでない場合もあります。例えば、ウィンドウズでは基本的にはワープロソフトと日本語入力プログラムは独立に選べます。つまり、どのような組み合わせでも良いことになります。
ワープロソフトのMSワードはウィンドウズ版とマッキントッシュ版があります。Linux版はありません。だから、MSワードから見れば対等な立場にあるのは前2つのOSだけです。
ATOKには、ウィンドウズ版もマッキントッシュ版も、Linux版もあります。ハードについても、最初に述べた通り、携帯電話にあったり、PDAにもあります。
これは、ATOKから見れば、OSの選択はまったく自由であることを意味します。ワープロソフトの選択が自由であることは既に述べました。
だとすると、ATOKは概念上はOSよりも下に位置するインフラになっているという、層の逆転が起こっているという解釈ができるのではないかと思うのです。これはある種の革命とも言えるのではないでしょうか。
ATOKという特定のプログラムを例に出しましたが、本当は加藤昌史さんのいうように、入力はどんな機械でもするのだから、日本語入力の技術こそがOSの下にあるインフラであるというのはそれほど間違った考えではないように思われます。
日本語入力の技術がインフラであると世間に認識されるためには、(1)どのようなOSでも同じ使い勝手を実現できるようにする、(2)異なった技術が対等に競争できるようにする、ことが必要です。日本語入力とOS、日本語入力とアプリケーションソフトとのインターフェースの規則がきちんと定義されていることが、この条件を保証する最低条件となります。
***
あとはおねだりとなります。
親指シフトのエミュレーション機能を持った日本語入力プログラム(例えばJapanist)をすべてのプラットフォームで実現してくれるか、ATOKのように、多くのOSに対応している日本語入力プログラムに親指シフトのエミュレーションの機能をつけてください。
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